人間誰しも不安や恐怖を感じるときがありますよね。
それは必ずしもピンチや困難に直面した場合だけではなく、自分が持っている過去のトラウマ体験や記憶によって繰り返し引き起こされる場合もあります。
あがり症は後者にあたります。
大勢の人を前にして緊張で体が震えるのは、死に至るような危険が待ち構えているからではなく、過去の記憶がそうさせているのです。
私は20年ほどこの厄介な問題に悩まされ続けてきましたが、最近では克服と言っても差し支えないほどになりました。
今回は、どうやってこのような変化を実現できたのかについて紹介します。
あがり症という過去の記憶の再生
私がいつからあがり症になったのか、正確には覚えていません。
ただ、中学生の頃には人前に出ると極度の緊張を覚えるようになっていました。
大学では思い切って人前でパフォーマンスをするサークルで活動しましたが、失敗経験を重ねて、あがり症はむしろ強化されてしまいました。
社会人になっても、あがり症は続きました。
会社の会議では、緊張して単純な業務報告すらままならず、毎回カンペを用意して参加していました。
特に嫌だったのは大勢の前で話す場合です。
運悪くその役が回ってきたときには、頭に血が上って自分が何を話しているのか分からなくなり、呼吸困難になり、声や手足が目に見えて震え、これらの状態を自覚して更にパニックになるという悪循環に陥っていました。
私にとっては悪夢そのものですが、冷静に考えると、ここで起きていることは過去の失敗経験を思い出して、それに対して不安や恐怖を覚えている状態だったのです。
この考え方は、タナカミノルさんの音声プログラムでよく出てくる「過去の記憶の再生」というものですが、これが自分の状態を客観視するための出発点になりました。
一歩ずつ丁寧に固定観念を外す
克服しなければという強迫観念
とある外部向けの勉強会に登壇して特にひどいあがり症を経験し、自尊心がボロボロになった後のことです。
私は、あがり症を絶対に克服しなければならないという思いを新たにし、メンタルクリニックをはじめとして、自己啓発の書籍やセミナー、情報商材、スピリチュアル、瞑想、コーチングと色々なものを試しました。
とにかく克服しなければならない、そうしなければいけないと思いつめ、それが一種の強迫観念のようになっていた気がします。
ただ結果的には、新しいものに手を出しては、どこか違和感や摩擦を感じて放り出すことを繰り返していました。
そのうちにだんだん無力感を感じて、しまいにはもう一生悩みながら生きていくしかないのかな、と考えるようになってしまいました。
名詞ではなく動詞で考える
タナカミノルさんの音声プログラムには、そんなときに出会いました。
プログラムの中で「名詞ではなく動詞で考える」というシンプルながらパワフルな考え方が紹介されていました。
これは、名詞を使うとその名詞に対して持っている自分の固定されたイメージによって、決めつけたり、いつも同じ見方で見てしまいがちになる。
一方で動詞を使うと、ダイナミックに捉えることができるようになるという考え方です。
私の場合、ここで言う名詞はとりもなおさずあがり症でした。
私は一度あがり症という単語を使うのをやめて、具体的な症状で捉えるようにしてみました。
すると、なんか頭に血が上ってるな、手が震えてるな、頭が真っ白になってるな、といったように客観的に自分を観察している感覚を覚えました。
それを何十回かやっていると、あがり症と言っても時と場合により症状が微妙に違うことに気づき、自分の中で起きている現象をもっと注意深く観察しないといけない、と考えるようになりました。
逆サイドを考える
また、プログラムでは「逆サイド」という考え方も紹介されていました。
これは自分と他人、メリットとデメリットなど、対もしくは反転した視点を常に持つことによって、複合的に物事を捉えることができる、というものです。
例えば、私はあがり症がデメリットの塊だと思っていましたが、デメリットだけでなく何らかのメリットもある可能性が考えられます。
仮にメリットがあるとしたら、と自問した結果、それは緊張を強いられる場面を避けるための口実としてあがり症を利用できるということであり、その背景としてマイナス評価を下されることへの恐怖や自分自身のプライドの高さが浮かび上がってきました。
また、私はあがり症の状態の自分に対して、極めてネガティブな自己評価をしていましたが、自分と他人という逆サイドで見ると、他人からは実際にはどう見えているのかが気になりました。
そこで思い出したのが、前述の勉強会で登壇した後に他の登壇者の一人が私にかけた言葉でした。
彼はそのとき「平常運転ですね」「落ち着いていますね」と私に言ってくれたのです。
とっさにそんなバカな、と思ったのですが、もし本当にそう見えているのだとしたら、そもそも他人からマイナス評価をされていないわけで、怖がることは何もないことになります。
もしかして、あがり症を克服する必要性などないのでは、とさえ思いました。
こうして、私があがり症という名詞に持っている固定観念が少しずつ外れていきました。
捉え方を変えると問題の本質が変わる
役割を引き受ける
それから少したった頃、私は会社で小規模のチームのリーダーやいくつかの会議の進行役をやってくれないか、というオファーを受けました。
正直なところ断ることもできたのですが、これには何か意味があるのだろうと思い、私はすべて引き受けることにしました。
最初のうちは毎回のように緊張を強いられていたため、その不安を軽減するために入念な準備をしていました。
しかし、やがて準備そのものが重荷になっていき少しずつ精度を落としていった結果、少ない準備量でも何とか役割をこなせるようになりました。
視点が移動すると悩みも移動する
ところで、進行役として自分から言葉を発したり他の人に意見を促したりしていると、色々なことが気になってきます。
例えば、発言が一部の声が大きい参加者に偏っている、発言者同士の目線が合っておらず議論が堂々巡りになっている、全く発言しない参加者がいる、などです。
進行役になる前は、そのようなことを気にする余裕すらありませんでした。
しかし、全体を俯瞰する立場になったことで、自分自身の問題に視点が固定されていた状態から、自分以外のことに目が向く状態になったと言えます。
そこから、会議をうまく進行したい、議論をより良くしたいという欲求が生まれ、それはあがり症への不安や恐怖よりも大きな関心事になりました。
その過程で、言いたいことがうまく言語化できないという悩みを感じるようになり、自分の意見を構造的にまとめたり、マインドマップで図式化してみたりしました。
また、話し方のスキルを磨いたり、色々な言い回しをインプットしたりもしました。
相手視点で考える
しかし、言葉を尽くしたと思っても、うまく伝わっていないようなリアクションが返ってくることが度々ありました。
そこでようやく、相手の知識レベルに合わせて話したり、相手の興味関心を引くような工夫をしないと理解してもらえないことに気づいたのです。
そもそも自分の意見をうまく伝えたいと思っている段階では自分視点であり、ただの押しつけになっている可能性もあります。
したがって、まずは相手視点で考えるということの必要性に思い至りました。
実際にやってみると、そもそも人によって関心事はバラバラで、私が思ってもみないような考え方を他人が持っていることは至極当たり前だということを改めて認識しました。
あがり症が完全になくなったわけではありませんが、もっとフォーカスすべきものがあると分かったことで症状が出てもあまり気にならなくなり、私の中であがり症の悩みが相対的に小さくなっていきました。
アドラー心理学という巨人
ここまでの流れを有機的に説明する概念として、アドラー心理学があります。
何年か前にベストセラーとなった『嫌われる勇気』は、アドラー心理学を対話形式で分かりやすく解説する内容になっており、ご存知の方もいらっしゃると思います。
この書籍もタナカミノルさんのプログラムで紹介されていましたが、最初に聞いたときはあがり症とつながりがあるとは思いもしませんでした。
巨人の肩の上に立つという言葉がありますが、まさにアドラー心理学が私にとっての巨人でした。
ただ、もっと早くアドラー心理学を知っていれば良かったとは思いません。
あがり症についての固定観念を一つ一つ丁寧に外したからこそ、また私自身が役割を引き受けたからこそ、視点が移動し、最終的にアドラー心理学につながったのです。
嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え / 岸見一郎著
望ましくない現実を変えていくためのアイデア
ここまでの話をもとに、自分にとって望ましくない現実を変えていくためのアイデアを2つほどお伝えします。
問題を徹底的に多角的に見る
単に視点を変えるだけで、問題がなくなったり、問題が小さくなったりするかもしれません。
あるいは別の方法を使うとすんなり解決するかもしれません。
これが何かのヒントになれば幸いです。